多様性は本当に有意義?SNSは誰でも情報を発信できるから無法地帯では?昭和世代が思う現代の疑問
※この記事は、時代に乗れない悲しい昭和世代の筆者による、ほぼ個人的なカッコつけた感の愚痴です・・・。
昭和生まれの筆者は、日々、現代社会で当たり前となっているキーワードについて、未だに批判的な部分があります。
それは「多様性」と「SNS」です。
一人一人の個性を尊重し、誰もが自由に意見を発信できる社会は素晴らしいもの、と一時は予想していましたが、どうしても首を傾げたくなるような出来事ばかりじゃないかと。
時代が変わった、では済まない現象が起こっていると考えているので、あえて和世代の視点から、現代社会の「多様性」と「SNS」について疑問を呈する所存です。
もくじ
多様性の問題点
「多様性」という言葉、よく聞きます。
職場でも、学校でも、メディアでも。でも、この「多様性」、本当に社会にとって有意義なものなのか、すっきりしません。
一般的に、多様性とは「様々な個性や背景を持つ人々が共存し、それぞれの違いを認め合うこと」を指します。
聞こえは良いですが、現実は「多様性」を免罪符に、好き勝手に行動している輩が多い、それを切り札に相手を黙らせている、そんなマイナスな印象しかありません。
要するに「言ったもん勝ち」の世界です。
例えば、ある企業が「多様性推進」の名の下に、能力や実績よりも、性別や人種のバランスを重視した採用を行ったとします。
確かに、見た目は「多様」になるかもしれませんが、本当にそれが企業や社会にとって最善の選択なのかということなんです。
「努力は必ず報われる」「実力があれば認められる」という価値観は、もはや笑われる存在で、タイパ重視の若者がバカにしそうなフレーズなんでしょう。
ただし「多様性」の名の下に、時として能力や実績よりも「違い」が優先されることがあります。
これでは、真面目に努力する人たちのモチベーションが下がってしまうのは明らかです。
薄っぺらい表面的な実績だけで立ち回る人間が、デカイ顔をするなんざ、おかしな話しでしょうが。
ゆえに過度な多様性の推進は、「違い」を強調するあまり共通点を見失い、互いの理解が深まらないという皮肉な結果になることもあります。
さらに「多様性」を重んじるあまり、これまで培った日本独自の価値観や習慣が軽視されている気がしてなりません。
和を尊び、目上の人を敬い、謙虚さを美徳とする日本人らしさが失われつつあるように感じるのは、恐らく同世代には多い気がします。
多様性の良い面として、新しい発想や創造性を生み出す源にもなるという論調もありますが、そんなこと、多様性をごちゃごちゃ言う前からあったっちゅーねん。
日本のあらゆる業界の技術を見ればわかるやろ。
多様性の受け入れの線引きは難しいですが、要するに、何も考えてない層が「多様性」を乱用すると、社会はボロボロになるということだけは言えそうな気がします。
SNSの弊害
さて、次はSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)について考えてみます。
SNSは、世界中の人々とつながれるという利点が強調されますが、それ、一般人でどの程度、達成できてる?
世界中の人と繋がっている人に憧れている人が、たくさん沸いてるだけなんでは?
それと、誰もが簡単に情報発信者になれるという点ですが、もう、すでにヤバい状況ですよね。
有益な情報が素早く広まる反面、誤った情報やデマも瞬く間に拡散されてしまいます。
アホほど表面しか見てないクセに、全てを知ったような感じで拡散するから、もはや手に負えなくなってるのが現状ではないですか。
昭和の時代は、新聞やテレビといった限られたメディアしかありませんでしたが、情報を精査した上で発信していました。
今も校閲など、専門のセクションの人がウラを取っています。
しかし今や、真偽不明の情報が次々とSNS上に流れ、それを鵜呑みにする人も少なくありません。
口が上手い、自分の見せ方が上手い人が、さも「すごい人物」のように振る舞って、くだらない情報を垂れ流しています。
それに乗っかるヤツも程度が知れる。
程度が知れるという言葉の意味も知らない人は、SNSでは格好のカモですよ。
格好のカモの意味も知らないかもしれませんが、要は、その辺の層が大量にSNSに流れ込んでいるので、もはや無法地帯と個人的には考えています。
ゆえに必要以上に関わることはしませんし、まず、信用すらもしておらず懐疑的な目で見ています。
SNSは時間の無駄なんです、自分にとっては。
例えば、コロナ禍では「〇〇が効く」といった根拠のない民間療法がSNSで拡散され、多くの人々が混乱に陥ったのは記憶に新しいところです。
このような事態は、専門家の意見を尊重し、慎重に情報を取り扱っていた昭和の時代には考えられないことでした。
さらにSNSの匿名性がもたらすモラルの低下も、イヤなところです。
顔が見えない相手だからこそ、普段なら言えないような悪口や中傷を簡単に書き込んでしまう光景が、日常茶飯事となっています。
face-to-faceでの話し合いなら、互いの表情や声のトーンを感じながら、コミュニケーションを取っていましたが、今の若者は、それができないことのほうが多いわけです。
SNSに入り浸っている学生は、就職の面接でも、そのような傾向が出てるから、内定は出ないよね。
そんなんじゃ先輩社員や上司と噛み合うわけがありません。
企業も、しょーもないレベルで社員教育しなきゃならないですから、教育コストばかりが上がってしまう。
特に中小企業にとっては痛いところですよ。
逆に言えば、相手の状況を見て会話のできる学生は、即戦力ともいえます。
まだ言えば、SNSによる情報の氾濫によって、思考力や判断力を鈍らせているように感じます。
昭和の時代、情報は限られていたからこそ、一つ一つの情報を大切に扱い、じっくりと考える時間がありました。
しかし今や、次から次へと押し寄せる情報の波に、ゆっくり考える余裕すら失われています。
そもそも情報を仕分けられる能力がある人なんて、ホントに少ないわけですから、SNSにカモがいるというのは、そういう皮肉を込めてのことです。
どこの馬の骨かもわからないヤツの投資情報に、数百万以上も金を出すなんて、バカにされても仕方がないでしょ。
それでも騙す方が悪いとか言うヤツは、騙された方に厚く手当てをしてやるべきかと。
でもしないんでしょ。
こういうやりとりすら面倒臭いが、SNSでは良く起こってますよね。
ウンザリ。
昭和の価値観の再評価
さて、昭和の価値観て、ホントに今は通用しないのでしょうか。
意外と昭和時代の価値観を見直すことで、現代社会の課題解決のヒントが得られるのではないかと考えています。
まず、「調和と秩序を重んじる社会」の良さを再評価する必要があります。
昭和の時代、「和を以て貴しと為す」という精神は、社会の隅々にまで行き渡っていました。
個人の主張も大切ですが、それ以上に全体の調和を重視する。
この考え方は、多様性を追求するあまり分断が進む現代社会に、もう一度必要とされているのではないかと。
次に、「実力主義と努力の価値」です。
昭和の時代、「努力は必ず報われる」という信念が社会全体に浸透していました。
確かに、努力だけでは乗り越えられない壁もあり、夢が断たれることもありますが、努力なしでは何事も始まりませんし、一定のレベルまでは到達しません。
ただ昭和の時代は、その過程における指導者の知恵が足りなかったのが、最大の欠点だったのです。
非科学的な精神論を振りかざすという黒歴史がそうで、これは掲げた人物も含めて根絶すべきもの。
ただ努力を軽視し、即座の結果や表面的な多様性ばかりを求める風潮は、中身のない人間を量産するのは確かです。
コツコツと努力を重ね、実力を養う姿勢は、今も評価されるべきだと考えます。
最後はface-to-faceのコミュニケーションの重要性です。
SNSやオンラインツールの発達により、確かにコミュニケーションの幅は広がりましたが、メッセージ上だけのやりとりで、事件に巻き込まれた人もいるではありませんか。
危機感やリスクを想像できない、感じ取れないのは、もはやコミュニケーションが取れないのと同じ。
ヤバイですよ。
まとめ
多様性やSNSを中心に、昭和世代の視点から現代社会への疑問を投げかけてきました。
多様性の尊重やSNSの普及で、日本社会は豊かになりました?
なってない気がしてならないんですよね・・。
いろいろと利便性は高まった部分はありますが、豊かさとは違います。
多様性とSNS、個人的には馴染むのに時間がかかりそうです。