夏休みの自由研究に不要論が勃発!アナタは否定派?それとも肯定派?自由研究の是非を考察
学生にとっては一大イベントである夏休みの真っ最中です。
行動規制の無い夏休みは実に3年ぶりとあって、お盆を控えて陸路も空路も移動する人で賑わった模様。
それでも2019年の7割ぐらいだとニュース番組では伝えていました。
そんな夏休みですが、小学校の宿題で定番の自由研究について不要論が勃発しているとか、していないとか。
まあ、ぶっちゃけ不要と言えば不要ですよね・・・。
そこで今回は自由研究について勝手に考察して見たいと思います。
もくじ
夏休みの宿題と言えば
筆者が小学生の頃は、
- 夏休みの友(定番の冊子型学習帳)
- 読書感想文
- 絵日記
- 自由研究
という4本立てが宿題メニューでした。
嫌なランキングを発表すると、
- 読書感想文
- 絵日記
- 自由研究
- 夏休みの友
という具合。
意外にも自由研究は「どうでもよい」感覚ではありました。
そのお陰で、実にどうでもよいことをやっては自由研究と言い張っていたものです(汗)
自由研究の例
自由研究という課題は、実はハードルが高いのです。
なぜならば、児童一人ひとりの作品や成果が体育館などにズラリと並べられて、披露されてしまうからです。
もちろん保護者も見るわけで・・・。
この自由研究、はっきりとレベルの差が出ます(汗)
毎年、気温をデカイ紙に折れ線グラフで記録したものを持ってくる者、自分で開発した玩具を持ってくる者などは、目立っていました。
そのような中で、明らかに親が作ったモノを堂々と持参する者もいて、これはこれで面白かったです。
特に小学校低学年の場合は、何らかの形で親が参画しないと終わりませんから、その傾向は強かったという記憶があります。
自由研究は不要である
結論から言えば、自由研究と言いながらも半ば強制している時点で、企画としてはダメです。
全然、自由じゃない。
ただ、親の立場からすると、圧倒的に必要と捉えることが多いと思います。
子どもに何かの期待をする、何となく必要なのではないかというレベルでしょうが、強制だけはして欲しくないですよね。
筆者も強制は全くしたことはありません。
自由にと言われる動けない
意外に「自由にどうぞ」と言われると、動けない人って多い気がします。
やはり小中高と時間割が決まっていて「やらされる」側に12年間も浸ると、自由に動くということに慣れるはずがありません。
右に倣えの義務教育、その延長の高校、やっと少し選択肢が与えられる大学というパターンが、数十年間も変わらないわけですから、イノベーションを起こす人材すら世界的にもショボイ存在かも。
少しでも違えば、打たれる日本では、生きにくいと感じる人が多く出てくるのも頷けます。
自由を知らないから自由を履き違える人もいて、益々、住みにくくなっていく予感しかしないのは、筆者だけでは無いでしょう。
自由研究は任意でOK
もう自由研究は任意で良いのでは?
そもそも任意にしているのかも知れませんが、大勢の中で数人がやっていないといなると、
- お前だけズルイ
- サボッた
なんて、妬みつらみを吐き出す者がいるから、非常にややこしいわけです。
出る杭は打たれるというのは、秀でた者だけが対象ではありません。
オレはやったのにアイツはしてない、といったように幼稚な思考が大人の世界にもまん延しているから、何かと任意にすると面倒くさいということになるわけです。
ホント、この手のやっかみはウザいですよね。
まとめ
「夏休みの自由研究に不要論が勃発!アナタは否定派?それとも肯定派?自由研究の是非を考察」というテーマで、自由研究について書きました。
自由研究は任意なのか宿題として提出すべきものなのか、学校によって違うのかもしれませんが、任意だとしても親が関わらなくてはならない小学校低学年にとっては、正直、面倒くさいものです。
自由研究は、ぜひ、子ども自主性に任せることが良いのでは?