新版『夜と霧』を読んだ感想 あらすじや書籍についてなど
ナチスの強制収容所に収容された心理学者の体験談が語られた、新版『夜と霧』を読みました。『夜と霧』を読んだ感想のほか、本についてや、あらすじ、中で語られる名言などについてお伝えします。
もくじ
『夜と霧』について
『夜と霧』は、1946年に出版されたナチスの強制収容所の経験を基に書かれた書籍です。
作者はヴィクトール・E・フランクルさんという心理学者。
日本語訳の本は『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』というタイトルで、1956年に霜山徳爾さんによる本訳でみすず書房より発行されました。
そして、『夜と霧 新版』として、2002年に池田香代子さんによる翻訳の新版が、同じくみすず書房より発行されました。
今回はこの『夜と霧 新版』を読んだことによる、感想などを中心にお伝えします。
『夜と霧』のあらすじ
1942年当時、オーストリア・ウィーンで精神科医として働くヴィクトール・フランクルを、ある日、ナチスは彼や彼の家族がユダヤ人であるというだけの理由で捕らえ、両親・妻ともども強制収容所へと送りこむ。
人類史上、最悪の残虐行為とも言われる夏巣収容所の中で、フランクルは残虐な虐待に耐えしのびながら、「人間の在り方」や「生きる意味」について考え続ける。
裏切りや絶望、病気や死と常に背中合わせの過酷な収容所生活、精神が破綻していく仲間をを励まし、「人」としてこの状況を生き抜くことを導くべき言葉をかける…。
「言語を絶する感動」と評され、「私とは、私たちの住む社会とは、歴史とは、そして人間とは何か」を考えさせられる歴史的名著。
『夜と霧』を読んだ感想
読むのなら、現代語により近い『夜と霧 新版』をと思っていました。
当然ですが、これは作られた物語などではなく、一人の心理学者の実体験であり、それをあまり主観を入れず客観的な視点で赤裸々に語られたという、とても珍しいものです。
まず思ったことが、一読して終わりというものではなく、何度も読み返すことで「人間の在り方」について考える機会を得るべき本だと思いました。
もちろん、世界中の人が読むに値する本でもあると思います。
この本名の中で印象に残った箇所は、いくつもありますが、そのうちのいくつかをここでは紹介します。
まず、驚かされたのが、収容所内で収容者を監視するのがカポーと呼ばれる同じ収容者であること。
そしてそのカポーに選ばれるのは、収容者の中で残忍な性格を持っているものであるということです。
同じ立場の仲間であるはずのものに、猜疑心を持つような監視の仕組みを作る点に、ナチスの残忍性が伺えます。
そして、収容者同士、助け合うものもいれば貶め合うものもいるという事実。極限状態に置かれ、いつガス室に送られるかわからないも過酷な状況に置かれ生きているわけですから、精神状態もまともではいられません。
分からに事だらけの最初の状況は、人々に感情があったものが、だんだんと精神的にダメージが加わるにつれ、感情が働かなかうなるという、まるで人体実験をみているような描写に恐ろしさを感じました。
精神がおかしくなって自殺するものや発狂するものもいるなか、それでも人間らしくい続けることの難しさについて、深く考えさせられます。
そんな言葉では表せないほどの過酷な収容生活の中で、人は「生きる意味」、「人生の意味」について何度となく考えさせられたでしょう。
もちろんユダヤ人であるというだけで不当に収容された人たちは犠牲者です。
そしてこのことで、多くの人が尋常ではないむごたらしい虐待を受け、二度と戻らない尊い時間も、家族をも失いました。
仮に生きて帰れた人の中にも、残りの人生に意味が見いだせず、自殺してしまう人も少なくなかったようです。
自分が同様な状況に置かれたら、そこに「生きる意味」を見出せるかどうかは、正直、分かりません。
そして、とても印象に残ったのが、生きて生還した人たちが、あまり収容生活のことを赤裸々に語りたがらないということです。
その理由に、過酷な体験はもちろん、語れないような内容を自らも行うことで生き残ったということが、少なからず自分の中にあるからだとの記載がありました。
ここでは良い人から順に死んでいったと。
まとめ
ずっと読んでみたいと思っていた本のひとつに、ヴィクトール・フランクル氏の書かれた、この『夜と霧』がありました。
ただ、それまでに見聞していた内容から、この本にはきちんと向かい合いたいと思い、読む態勢(自分のおける状況)を整え、図書館ではなく購入しようとの考えがあったため、手に入れて読むまでに少し時間がかかりました。
このような緊張な体験をもとにした書籍に触れるからには、そこから何かを学び取りたいと思って読みました。
ナチスの収容所に入れられた人たちは、犠牲者以外のなにものでもありません。
しかしそんな犠牲者の中にでさえ、良い人間と悪い人間がいて、ナチスの側にも、良い人間と悪い人間とがいました。
戦争に勝とうが負けようが、どこの国にも一定の悪人がおり、善人がいます。また悪人があらゆる面において真の悪人であるということもまた少ないでしょう。
多くの人は環境に左右され、自分の頭で考えずに行動している、普通の人たちなのだと思います。
故に、世論とか思想が間違った方向に働くと、とても恐ろしいものを生み出してしまいかねません。
悪を叩いているつもりが、実は自らが新たな悪となっている。
ネットの世界でも、そういったことがときどき垣間見えるように思います。