なぜ個人や企業のSDGs推進・バッジ装着に胡散臭さや違和感を覚えるのかを独自に考察
SDGs(持続可能な開発目標)について、実は深く考えたことはありません。
取り組みは世界中で広がっているともいわれますが、その実態や実効性、成果については、どうなっているのでしょうか。
一方で「胡散臭い」「違和感がある」という声も少なからず聞かれます。
なぜ、そのような印象を持たれてしまうのか。
本記事では、SDGsの懐疑的な意見や批判的な見方か絶えない理由を、独自の視点で考察します。
もくじ
SDGsとは?その本当の狙いを考える
SDGs(Sustainable Development Goals:持続可能な開発目標)は、2015年に国連総会で採択された17の目標と169のターゲットからなる国際的なアジェンダです。
2030年までにこれらの目標を達成することを掲げており、世界中の国々や企業、個人がその実現に向けて取り組むことが求められています。
しかし、SDGsには各国の政治的利害関係が大きく影響を与えています。
17の目標のうち、どれを優先すべきか、あるいはどの程度の進捗を目指すべきかについては、各国の政治状況や経済的な利益が関わってくるためです。
必ずしもすべての国にとって平等ではなく、特定の国や地域が利益を得るように設計されている側面も可能性として否定できません。
また、SDGsは非常に包括的ですが、例えば、気候変動対策(目標13)と経済成長(目標8)はしばしば相反し、同時達成が困難な場合もあります。
さらに、企業が利益最大化のために、環境や社会に関する「良いこと」を行う名目で、マーケティング戦略としてSDGsを活用することが増えているのは否めません。
企業のSDGs取り組みに潜む胡散臭さ
SDGsの掲げる目標に対して、多くの企業が積極的に取り組んでいるように見えますが、その裏にはしばしば「胡散臭さ」や「違和感」を感じることがあります。
まず、企業がSDGsに取り組む理由として考えられるのは、ブランドイメージの向上です。
「SDGsに貢献しています」というメッセージを発信することは、顧客の信頼を得るための有効な手段とされています。
しかし、実際にはSDGsの取り組みが「PR戦略」としてしか機能していないケースも少なくありません。
ゆえに「SDGsウォッシュ」という、SDGsの取り組みをアピールする一方で、実際にはその内容が不十分または虚偽である状況も垣間見えます。
SDGsの取り組みを宣伝しながら、実際には目標達成に向けた具体的なアクションが欠けている場合などを指します。
さらに、企業のSDGsへの取り組みは「数字のマジック」の可能性も否定できません。
たとえば、「CO2排出量を30%削減した」という発表は、その基準年や対象範囲が曖昧であったり、実際には製品ラインの一部のみを対象としていたりすることがあるためです。
取り組みを、第三者が定期的にチェックして、それを公表することもないようですから、疑われるのも無理はないといえます。
ただし、全ての企業が偽善だと述べるつもりはありません。
バッジの意義とそれに対する批判
SDGsバッジは、国会議員なども装着していましたが、今はどうでしょう?
カラフルな円形のバッジは、SDGsを支持していることをアピールするものですが、時か過ぎればという感じで、誰も付けていない印象です。
バッジを付けるだけでSDGsに貢献している、社会的責任を果たしているかのように見せかけることができるという懸念は、このようなことから払拭できないままのような気がします。
形式的な行為は、実質的な取り組みの欠如を覆い隠す手段として利用されることも少なくありません。
ゆえに「見せかけの善意」への不信感が無くならないのです。
装着と目標達成への具体的な行動は、必ずしも結びつかないため、
- 単なるファッション
- 自己満足
の一環として捉えられることが多くあります。
SDGsバッジが持つ象徴性は重要ですが、実際の行動が伴わなければ、その意味は薄れてしまいます。
なぜSDGsは無理ゲーと言われるのか
SDGsは持続可能な未来の実現を目指す、包括的な目標として広く支持されていますが、一方で「無理ゲー(達成不可能なゲーム)」と揶揄されることもあります。
その理由は、目標の広範さと複雑さに起因していると考えます。
SDGsには17の目標が掲げられていますが、その中には相互に矛盾する目標も存在します。
そもそも「持続可能」と「開発」からして、相反する言葉です。
持続可能ならば開発の必要性はありません。
要するに現状を維持しつつ継続しようとすることなのですから、キャッチフレーズから意味が破綻していると個人的には考えます。
それにも関わらず「目標」って、きれいな言葉を並べただけ。
だからこその胡散臭さです。
さらに、SDGsの実現には膨大な資金とリソースが必要で、多くの国や組織が、その全てを揃えることは難しいといえます。
政治的な対立など、一向に改善しない障害がある限りは、手と手を繋いで地球を守ろうなんて、愛は地球を救うレベルの共感性羞恥を引き起こします。
しかも2030年という期限まで、すべての目標を達成するという傍若無人な宣言こそ、「無理ゲー」を決定づけるものです。
あと5年と少しですよ・・・。
SDGsの必要性とその理解
SDGsが「無理ゲー」と言われることがある一方で、社会に必要不可欠な目標というのも一理あります。
気候変動、貧困、不平等、資源の枯渇といった深刻な問題は、何もしなければ改善はあり得ません。
これらの問題は、単一の国や企業だけでは解決できず、国際社会全体での協力が不可欠です。
国レベルだけでなく、それを個人レベルにまで落とし込んで共有することで、異なる立場や利害を超えて、共通の方向に向かって努力することが、SDGsの本質と捉えると「胡散臭さ」は少しは消えると考えます。
SDGsを「無理ゲー」として呆れるのは簡単ですが、少しでも意識のもとでの行動でも良いのかなと結論付けします。
ただし、バッジはどうかと思う・・・。
まとめ
SDGsは、持続可能な未来を目指して、世界中が協力し合うための重要な枠組みです。
しかし、その実現には企業や個人の「見せかけの取り組み」や、目標間の矛盾、リソースの不足といった多くの課題が存在します。
しかも「無理ゲー」と感じられることもあり、バッジやスローガンが胡散臭さに拍車をかけ、今はもう盛り上がりすら感じられません。
まあ、雲をつかむような、おとぎ話と考えればいいのかなと。