ジャイアント馬場の入場曲(テーマ曲)作曲者はあのアニメの名曲の作者と同じ?

ジャイアント馬場の入場曲(テーマ曲)について調べてみました。実は途中で入場曲が変わっていたのですが、なんと新しい方の入場局の作曲者は、あのアニメのテーマ曲(名曲)の作者でした!これはビックリです!

ジャイアント馬場の入場曲(テーマ曲)

日本陣プロレスラーというと、真っ先に上がるであろう人がジャイアント馬場。

ジャイアント馬場が試合に登場するときには、入場曲(テーマ曲)が流れました。

しかしこの入場曲、実はずっと同じではなく、時代により変わっているのです。

一番初めのテーマ曲は「日本テレビスポーツのテーマ」でした。この曲は黛敏郎氏により作曲されたもので、もともとは「スポーツ行進曲」というタイトルだったようです。

この曲は全日本プロレスのテーマ曲とも言えるもので、以前はプロレスのテーマソングといもえるほど各局のテレビ番組で使われていました。

いま聴くと、なんとなくさわやかで健全なイメージの曲ですね。

その後、1984年からジャイアント馬場の入場曲として使われだした曲が、「王者の魂」という曲です。

作曲は実川俊、TEmPAによるもので、だいぶロック色が強くなっていますね。。

作曲者の実川俊氏とは、ミュージシャンの実川俊晴さんで、この方はキテレツ大百科のテーマソング「はじめてのチュウ」を作ったあんしんパパさんと同一人物です!

びっくりですよね!

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ジャイアント馬場のプロフィール

では、知る人ぞ知るジャイアント馬場のプロフィールについて、少しご紹介したいと思います。

ジャイアント馬場 プロフィール
本名:馬場正平
ニックネーム:
世界の巨人
東洋の巨人
御大
王者の魂
王道
東洋の悪魔
馬場ちゃん
身長:209センチ
体重:135kg(全盛期)
誕生日:1938年1月23日
死亡日 1999年1月31日(61歳没)
出身地:新潟県三条市
デビュー試合:1960年9月30日
引退試合:1998年12月5日

ジャイアント馬場がプロレスラーになる前は

ジャイアント馬場は、初めからプロレスラーではありませんでした。

知っている方も多いかと思いますが、もとは馬場正平なる本名で、プロ野球選手として活躍されていました。

所属チームは読売ジャイアンツ。

右投右打でポジションは投手でした。

1955年の17歳の時にプロ入りし、公式戦に初出場したのは1957年8月25日でした。

プロとしての試合最終出場は1957年10月23日で、1959年度まではプロ野球選手でした。

実は、1960年以降もプロ野球を続けるつもりでいたところ、宿舎のお風呂場でガラスを突き破るほど激しく転倒し、左肘に17針を縫う傷を受けました。

その際に、左手の指も思うように動かない状態が続いたため、プロ野球選手継続を断念。

それでもなにかスポーツを続けたいとの思いから、力道山のいた日本プロレスセンターを訪れ、プロレス入りしたのでした。

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ジャイアント馬場の得意技

ジャイアント馬場のプロレスを見たことがある人はご存じかと思いますが、スピード感のある技はあまり見られず、高身長を生かした落差と重力を生かした技や、大きな手足を武器のように使った技が代表的な得意技でした。

ここにジャイアント馬場の得意技一覧を上げておきます。くれぐれも真似はしないでくださいね。

  • 16文キック
  • 32文人間ロケット砲
  • 脳天唐竹割り
  • 河津落とし(ジャイアント・バスター)
  • 股割き(レッグスプリット)
  • ランニング・ネックブリーカー・ドロップ
  • ココナッツ・クラッシュ(ヤシの実割り)
  • アトミック・ドロップ
  • アームブリーカードロップ(腕折落とし)
  • サーフボード・ストレッチ(波乗り固め)
  • コブラツイスト
  • ドリル・ア・ホール・パイルドライバー
  • ジャイアント・ニー・ドロップ
  • ジャイアント・ギロチン・ドロップ(レッグ・ドロップ)
  • ジャイアント・バックブリーカー(巨人式背骨折り)
  • スイング式ネックブリーカー

体が大きいジャイアント馬場が繰り出す技。一般人が受けたらひとたまりもないでしょうね。

それに対抗できた対戦相手は、相当なものだと思います。

まとめ

日本の3大プロレスラーと言えば、力道山、ジャイアント馬場、アントニオ猪木の3者でしょう。

プロレスファンでなくとも、ある程度の年齢以上の方であれば、名前を知らない人はいないと思います。

プロレス界もいろいろと様変わりし、更にはプロの格闘技というものの種類もかなり増えました。

そういった格闘技の世界を築いたこの三者は、まさに格闘技界のレジェンドですね。

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