静岡県とお茶の歴史 日本茶のルーツは中国にある?やぶきた茶や清水次郎長との関係とは?

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日本人なら当たり前のように飲んでいる日本茶。お茶の名産地である静岡県とお茶の歴史をはじめ、日本ではいつからお茶を飲まれるようになったのか、「やぶきた茶」や「静岡茶」、「宇治茶」の違いなどについても説明します。

静岡県とお茶の歴史(~江戸時代)

お茶の産地として有名な静岡県とお茶の歴史をお伝えします。はじめに江戸時代までの歴史からです。

日本に最初にお茶が伝えられたのは、平安時代で中国に留学した僧侶たちが持ち帰ったのが始まりといわれています。

鎌倉時代に、中国で学んで帰国した栄西禅師が、お茶の効能を広く人々に伝えるため、「喫茶養生記」の中で「茶は養生の仙薬なり、延齢の妙術なり」と宣伝し、お茶を飲むという文化を広めました。

静岡県のお茶の歴史は、駿河国栃沢(現静岡市郊外)に生まれた聖一国師(しょういちこくし)が、鎌倉時代に中国からお茶の種を持ち帰り、現在の静岡市足久保にまいたのが始まりとされています。

江戸時代になると、静岡茶は銘茶として知られるようになり、足久保のお茶が江戸城へ献上されていたそうです。

このころから、現在のようなお茶の葉にお湯を入れて飲む「煎茶」の方法が伝わったとされています。

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静岡県とお茶の歴史(明治時代~)

続いて明治に入ると、多くの武士とその家族が江戸から静岡に移り住むようになり、牧之原や富士周辺の茶園開拓が始めら、静岡県の茶産業が大きく発展しました。

また欧米との貿易が始まると、お茶は重要な輸出品の一つになり、大量の茶の必要性が生じました。

明治末期に、静岡県安倍郡有度村に生まれ、お茶の優良種の開発をしていた杉山彦三郎が、優良品種「やぶきた」を見つけました。

この頃になると機械化によるお茶の製造法の確立も進み、製造生産性が飛躍的に向上しました。そして清水の次郎長の働きによって清水港が整備され、静岡県はお茶の輸出拠点となりました。

そのような歴史的流れがあり、現在では生産高、品質、流通面においても、日本の茶業の拠点となったのです。

聖一国師について

中国からお茶の実を持ち帰り、駿河足窪(現静岡市足久保) に植えたと伝えられている人物が、聖一国師(しょういちこくし)です。聖一国師は鎌倉時代の高僧で、中国に留学していました。

後に足久保の地は「御用茶」として納めるほどの良質なお茶を作る地となり、聖一国師は静岡茶の祖といわれるようになりました。

そのため静岡市では、聖一国師の誕生日である11月1日を、「静岡市お茶の日」と定めています。

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やぶきた茶とは

「やぶきた」は、お茶の品質改良の先駆者である杉山彦三郎が明治41年に見つけた新品種です。竹やぶの北側に植えたことから「やぶきた(藪北)」という品種名がつけられました。

「やぶきた」は1945年に県の奨励品種となり、1953年には農林省登録品種に指定されました。「やぶきた」の原木は、昭和38年に静岡県の天然記念物に指定されています。

お茶には「静岡茶」「宇治茶」「八女茶」「狭山茶」などの種類がありますが、これらは産地の名前が銘柄に付けられています。

ちなみに、日本で栽培されているお茶の約8割が静岡茶で、その静岡茶の9割以上が「やぶきた」です。

「やぶきた」は栽培しやすく高品質なため、登録されてから100年もの歳月が経っていますが、もっとも普及率が高く、日本茶の代名詞的存在です。

清水次郎長について

清水次郎長(しみずのじろちょう)とは、人物名ではなく、本名を山本長五郎(やまもとちょうごろう)と言い、幕末維新期に清水に縄張りをもっていた侠客の親分のことです。

実際は清水だけでなく、静岡の発展の礎を築いた人物ともいわれています。

お茶の販路拡大のために、清水港の整備の必要性を感じた次郎長は、廻船問屋の経営者を説得し清水に波止場を建造しました。その結果、後に清水港はお茶の輸出量日本一となり、国際貿易港としての基礎を築き上げることになりました。

また、次郎長は富士裾野の開墾開墾事業も行い、お茶の生産量もアップし、大いに静岡県に貢献したと言われているそうです。

まとめ

日本で栽培されているお茶の約8割はやぶきた茶だとは知りませんでした。いつも何気なく飲んでいるお茶は、きっとやぶきた茶なんでしょうね。

そのくらい、お茶の歴史と静岡県は、切り離せない関係にあるということです。

そして、清水次郎長と静岡茶とに、このような深いつながりがあったとは。

調べてみるといろいろなことがわかりますね。

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