食レポでもないのに何かを食べながらしゃべる動画を投稿する意味が全くわからない件
シンプルに不思議だと感じることがあります。
YouTubeでは、食レポでもないのに何かを食べながらしゃべるだけの動画を、まれに見かけるのです。
内容は特段、大したものではなく、単なるひとり言・・・。
愚痴だったり近況だったり、いわゆる独り語りなわけですが、どう考えても大衆向けではないと予想しています。
ファンサ?
このような何の専門知識や興味深い情報の提供もなしに、食事をしながらカメラの前でしゃべる構成に、一定の支持があることも不思議なのです。
この現象について、背後にある意味について、独自の見解を述べてみたいと思います。
もくじ
食べながら話すこと
昭和の時代は「行儀が悪い」ということで、あまり推奨はされてなかったはずです。
また、そのようにしつけられてきた人も、多いのではないでしょうか。
はっきり言って、唾液が飛散しますからね。
コロナで学んだはずですよ、黙食というやつを。
動画なら唾液の飛散はありませんけど、他人の食べてる様子をジッと見るなんて、気色悪くて個人的にはムリです。
本人は自覚がないかもしれませんが、まれに、おいしくなさそうに食べる人もいますよね。
大の大人が、食べたものが口に入っている状態で、大口開けてしゃべる・・・。
2.3歳の子どもかと思ってしまいますね。
食べながらしゃべる動画の意義
何の専門知識や食べ物に関する情報もなく、単にカメラの前で食べながらしゃべる人のナゾ。
なぜ、このような動画を投稿しようと考えるのか、その背後にある謎について、勝手に考えてみました。
新しい社交の形
このような動画は、新しい社交の形であると考えます。
普段は友達や家族と楽しむ食事を、オンライン上の友達やフォロワーと共有することで、新たなコミュニケーションの手段として受け入れられているのかもしれません。
共感
これらの動画は、視聴者に共感を呼び起こす力があるのかもしれないです。
食べるという日常的な行為を通じて、視聴者は動画クリエイターの人生や考えに触れることができると思っているのかも。
信じられないですが、視聴者とクリエイターとの絆が生まれ、コミュニティが形成されるというメリットがあるのではないでしょうか。
エンターテインメント
シンプルにエンターテインメントとして楽しまれていそうです。
食べ物の選択や、どのように話すか、場所や背景など、視覚的な要素を好き勝手に評論している視聴者がいるのかも。
それが楽しいと感じるのであれば、動画を投稿する意義はあるのでしょうね。
親しみやすさを演出
あくまでも私見ですが、食べ物とトークを組み合わせた動画は、親しみやすさと日常性が演出する効果があるのかなと考えました。
庶民的なところをアピールして、ファンを増やすという目的があるようです。
けれども、動画の向こうでの食事をしながらのトークで、共感はともかく親しみやすさを感じることってできます?
もし、そうだとしたら、そんなに人って軽いものですかね?
- 「そんなの勝手じゃん」
- 「それってあなたの感想ですよね」
このような意見が世間やSNSなどでは出回っていますが、そりゃそうですよ。
共感するのは勝手ですし、完全に個人的な感想だと言っています。
しかしまあ、これらのセリフを吐くことで溜飲が下がるレベルでしかないのだなという面が、ほとんどなのですけどね。
意味、わかりますかね?
不特定多数に食べる姿を見せる異様
冷静に考えると、尋常じゃない行動ですよ。
例えば満員のフードコートで、私の食べながらのトーク、特に提供できるものはないけど共感できるでしょって感じでワーワー言っているのと同じです。
投稿動画に関して、視聴者はフードコートのレベルではありません。
国内の不特定多数です。
それでいて、
- 箸の持ち方が・・・
- 食べ方が・・・
とか言われると、キレて反論したり、悲しいと言ってみたりするんですよね?
そりゃそうでしょう、不特定多数が見てるわけですから。
こういうところが再生回数に目がくらんで想像できないのかなと考えてしまいます。
自身でタネを巻いているのに、想定外の反応があると、騒ぎ立てるって何なんでしょう?
SNS疲れ、SNS離れって、こういうところに気付いた人が取る行動なのかもしれません。
まとめ
「食レポでもないのに何かを食べながらしゃべる動画を投稿する意味が全くわからない件」というテーマで、独りでカメラに向かって食事&トークのスタイルについて書きました。
食べるところ、そんなに見せたいですか?
食べるところ、そんなに見たいものですか?
以上です。