おめでたい日の公開プロポーズあり?なし?共感性羞恥を伴う衆人環境でのプロポーズの是非を問う
恋愛とは、時には予測不可能な展開を見せ、驚きや感動の瞬間を生み出すものです。
その中でも、公共の場で他人のプロポーズを目撃する瞬間は、我々の心を一瞬にして揺さぶるものとなります。
ある日、ショッピングモールやレストラン、街中のどこかで、見知らぬ他人が愛を告白し、リングを手にして「結婚してください」と口にする・・・。
このような瞬間に感じる感情について、今回はつらつらと書いていきます。
もくじ
公共の場でのプロポーズ
他人のプロポーズが、美しく繰り広げられようとしている瞬間、その背後には様々なストーリーが広がっています。
公共の場での愛の告白が、どのような状況で行われ、本当に人々の心を打つのか、ちょっと疑問です。
ショッピングモールやレストラン、街中で繰り広げられる公開プロポーズは、恐らく、周到な計画と準備によって成り立ちます。
しかし、仕掛ける側としては、
- 相手は喜んでくれるだろう
- 周りの人も祝福してくれるだろう
- 思い出に残るだろう
と、すべて仕掛け人サイドの気持ち、つまり自己満足と承認欲求が汲み取られているものです。
そこには、他人の目を気にしない豪胆な面と、自分が中心という面が表裏一体であることがわかります。
相手の気持ちを汲み取れない時点で、ダメだと思うんですけどね。
断れない、断りにくい状況の中で行うというのは、策士の考え方であり、結婚生活もきっと、思いのままに相手を操ることでしょう。
衆人環境で揺れる心情
公共の場で、偶然にも他人のプロポーズを目撃してしまうと、さまざまな感情に揺れ動かされます。
その感情の中で特に注目すべきは、共感と羞恥です。
衆人環境でのプロポーズが引き起こす、感情の複雑さを解剖し、なぜ、そう感じるのかを明らかにしていきます。
他者の幸福な瞬間に心を動かされ、彼らの喜びを共有する感情は自然なものです。
公開プロポーズでは、幸せな未来への第一歩が踏み出される瞬間が訪れます。
愛と幸福に満ちたエネルギーを共感的に受け止め、喜びを分かち合える人にとっては、よい出来事だと言えます。
一方で、見知らぬ他人のプロポーズを目撃することで、自分の人生観や恋愛観に対する、反発や嫌悪、不安が浮かび上がるわけです。
最たるは共感性羞恥で、まるで自分のことのように受け止めてしまい、その状況を恥ずかしさで直視できない状況が起こります。
まあ、恥ずかしいと感じる人は、絶対にしませんよね。
羞恥心の無い人だけが、やるものです。
フラッシュモブが消えたのは、結局は、そういうこと。
婚約と共感性羞恥
婚約中の男女にとって、他人のプロポーズを公共の場で目撃すると、複雑な感情を呼び覚ますことがあります。
なぜならば、未来やパートナーシップに対する期待と不安を抱えることになるからです。
他者のプロポーズを目撃することは、まるで自分たちの未知の未来に、突然、立ち会っているような錯覚を生み出すことがあります。
また、自身の結婚の進捗や成功に対する圧力も、ひしひしと感じることでしょう。
他者の喜びと比較されることで生まれる、周囲や相手からのプレッシャーによって、心境がガラッと変化する可能性があります。
共感性羞恥とは
共感性羞恥(vicarious embarrassment)は、他者の行動や状況に対して感じる、共感と羞恥が交錯する感情のことを指します。
具体的には、他者が恥ずかしい思いや失敗を経験する場面を見て、それに対して自分が恥ずかしさを感じる現象です。
この感情は視覚的な情報や物語を通じて他者の体験を理解し、それに共感することで生じます。
共感性羞恥は人間関係や社会的な状況においてよく見られる現象です。
他者が恥ずかしい状況に置かれた際に、観察者がその感情を共有し、自分自身も恥ずかしいと感じること、ありませんでしたか?
例えば、テレビのコメディ番組でキャラクターが抱く窮地や場の雰囲気に笑いながらも、そのキャラクターの恥ずかしさを共感的に感じ、自分まで恥ずかしさを覚える場面が共感性羞恥の一例です。
まとめ
「おめでたい日の公開プロポーズあり?なし?共感性羞恥を伴う衆人環境でのプロポーズの是非を問う」というテーマで、公開プロポーズについて書きました。
公開プロポーズ、あまりやらない方が良さそうです。
相手次第ですが、嫌がる人は多いみたいですし、わざわざ衆人環境でやるものでもないですよね。
完全に、自分が目立ちたいという不純な動機、周囲も祝福してくれるという甘い見積もり、そんな人間性が垣間見えます。