今はすっかり聞かれなくなった大晦日の除夜の鐘が鳴りを潜めてしまった理由を改めて考えてみる
かつての日本の大晦日の風物詩と言えば、
- みかん
- こたつ
- 紅白歌合戦
の3点セット。
紅白歌合戦の後は、ゆく年くる年を見ながら除夜の鐘を聞き、年越しそばを食べるというのが、習慣となっていた家庭も多かったのではないでしょうか。
ところが、段々と時代が移り変わるにつれ、人口の多い都会ともなると、家族バラバラで年末を過ごしている可能性もあります。
もしかすると、のどかな地域では、今でもそのような習慣が根付いているとは思いますが、除夜の鐘はあまり聞かれなくなりました。
あの音、癒されるんですけどね・・・。
そこで今回は、除夜の鐘が聞かれなくなった理由について、言及してみます。
もくじ
除夜の鐘の歴史と意味
今年も大晦日が迫り、新年を迎えるための準備が始まっている時期です。
しかし、かつて大みそかの風物詩であった「除夜の鐘」の音は、今や耳から遠ざかってしまいました。
大みそかになると、寺社や教会から響く除夜の鐘の音は、新しい年の幕開けを告げる特別な瞬間でした。
これは、過去の人々にとっては喜びや希望を象徴し、また亡くなった先祖たちの霊を迎える儀式の一環でもあったのです。
除夜の鐘の音色は、一年の終わりと新たな年の始まりを感じさせ、人々に勇気や前進の力を与える役割がありました。
鐘のない夜の新たな風景
しかし、時が経つにつれて、生活様式や価値観が変化していきました。
都会化やテクノロジーの進歩に伴い、寺社や教会の周りには日常生活の喧騒が広がり、除夜の鐘の音も同様に捉えられることが多くなっていたと考えます。
新しい年を迎える方法や年末の過ごし方が多様化する中で、かつてのように鐘の音が特別な存在である必要性が薄れていったのかもしれません。
今や、大晦日の夜は鐘の音に包まれることなく、静寂な時間が流れています。
除夜の鐘が鳴らされなくなった背景には、社会構造の変化や人々のライフスタイルの多様化が影響していることは明白です。
除夜の鐘がうるさい・・・。
もはや風流さえも感じない人が増えたと言っても過言ではありません。
ギスギスした中での生活に疲れ果て、大晦日ぐらい静かにしろという自分勝手な論理を振りかざしているだけです。
そんな生活に飛び込んだのは、その人自身の決断なんですけどね。
除夜の鐘の価値
かつて除夜の鐘が鳴り響くと、その音色には、美しさと厳かさが感じられたものでした。
その一音が、一年の終わりと新しい年の始まりを告げ、人々に心の中で感謝と希望を呼び覚ましたのです。
その音は、まさに日本の大晦日の象徴として、夜を彩っていました。
今や大みそかの夜は、かつてのような除夜の鐘の音に包まれることはありません。
その寂寥(せきりょう:満ち足りなくてもの寂しいさま)は、その失われた音色がもたらすものです。
一年の区切りと新たな始まりへの感謝の気持ちや、過去と未来をつなぐ架け橋としての響きが、欠如してしまっているから、除夜の鐘の心地よさを知る者からすると、もの寂しさは当然です。
この寂寥の中には、失われた美と共に、何か大切なものが抜け落ちてしまったような感覚が広がっています。
除夜の鐘の音の再評価
大みそかの除夜の鐘、音色が失われつつある現代社会ですが、その一方で、新しい風景や価値観として、再評価する動きも見受けられます。
かつて、除夜の鐘の音色がもたらしていた感動や神聖さを、新しい形で再評価し、今後の大みそかの夜に新たな感動を見出す人もいます。
心が荒んでいなければ、除夜の鐘の音は、嫌なものではありません。
とは言え、近隣の住民にとっては108回も鳴り続ける鐘の音は、たまったものではないということも理解できます。
ところが、昨日今日引っ越してきた人たちが、ワーワーと騒いでいるだけかもしれません。
お寺の近所ということなら、想像が働くものだと思いますけどね。
引っ越す前のリサーチ不足としか言えません。
除夜の鐘は再評価されてよい存在です。
まとめ
「今はすっかり聞かれなくなった除夜の鐘が鳴りを潜めてしまった理由を改めて考えてみる」というテーマで、除夜の鐘について書きました。
昨年、我が家にも数年ぶりに除夜の金が届きました。
ものすごく小さな音でしたが、あの響きを知っているからこそ、感動するものがあました。
今年も聞けると嬉しいです。